井戸水と地震雲 震災に学ぶ生存者バイアス2例

 過日、震災に関してひとつの記事が載っていました(※URLを紛失してしまいました。ご教授頂けると助かります)。記事というのも気が引けるくらい、ありふれた言い回しのものです。

「井戸の水が引いたのを見て逃げた。すぐ後で津波が来た」

 言えることは、これが死を招き得る代物だ、ということです。
 記事が嘘だ、と言っているわけではありません。井戸の水が引いたのも本当でしょうし、逃げて無事だったことも事実なのでしょう。
 けれども、こうも考えられないでしょうか。

「井戸の水が引いていない、と安心して避難しなかった人は生き残らない」

 生き残らない、というのは、単に居合わせた人々が亡くなるというだけではありません。水が引かず、安心したまま被災したとします。そして生き延びたとしても、TVもラジオも無かった100年前ならいざ知らず、後々で「井戸の水は引かなかった」とこぼすでしょうか。同様に、井戸の水が引いて逃げたとして、津波が来なかった時はどうでしょう。

 その声は「井戸から水が引いた」との言い伝え通りの(浸透しやすい)声より、ずっと小さなものになりましょう。少なくとも私なら、井戸を見に行ったこと自体について口をつぐみます。冷静に考えて、井戸水も津波も、ともに地震が原因だから同時に起こる時もあるかも知れない、という位のものです。そして井戸の水を見るだけでは、それを区別するのは困難。NHKを見る方がよほど確実でしょう。

 声が大きい強者、即ち生き残った者の論理。それが生存者バイアスなのです。

 地震に関して言えば、もうひとつ、地震雲が根強い代物です。ここではGoogleのリアルタイム検索で、地震雲について分析してみましょう。

 3月11日の午後三時、すなわち地震の直後から急激に増えていることが分かります。これは、「そう言えばあの時……」ですね。
 同時にグラフを長く取ると、平常時であっても散発的にささやかれていることが分かります。

 一見もっともらしい話の裏側で、数多く外れ続けているんです。本当になったものだけが「生き残る」訳です。

 ありのままの私たちは、思っているほど獣から遠くはありません。言い伝えや直観を素朴に信じることは、近代以前、パスカルフェルマー以前の世界に生きることに他なりません。今どうして中世の人たちを笑えましょう。

 だからこそ、時折は身に付けている数々の偏見(バイアス)を考え直してみては……というと、少し大げさでしょうか。

 成功者の体験談にしろ「地震予知能力」にしろ、生き延びた部分が目立つ側面はあるでしょうから。